番外:山南敬助の謎 そのA
山南敬助タイトルイラストA
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◎新撰組の最大の謎を考える
 山南敬助、その顛末。そのA

ここから先は、状況証拠等々から考える刑事コロンボばりの推理になります。
つまり、『当サイトの考察による当サイトの説』になります。

山南の顛末は、裏付けとなる決定的な記録や証拠が存在しない以上、他の説同様、「とある説」のひとつにしかなりえません。
その点をご了承のうえ、以下を読み進めて頂ければと思います。

山南敬助の謎を解く!
さて、前ページの様々な謎・不可解ポイントを受けて、ある視点で山南の顛末を紐解いてみましょう。
結論を先に述べますので、様々な謎へはめ込んで行きましょう。

結論から言うと、私はこれまでの説や通説を否定して、山南敬助は労咳だったと見ています。
つまり沖田に労咳を移した者が山南だったのではないかとも考えています。

もちろん記録は何も残っていません。
なぜか?
それはわざと残さなかったのでしょう。
だからこそ、不自然な程に山南の記録が突如消えて残されていないのだと考えます。
山南敬助 消えた存在
近藤も土方も、最初は山南がそんな厄介な病だとは思いもしなかった事でしょう。
只の体調不良やら病気ぐらいで見ていたのだと思います。
なので、池田屋に山南が参加しなかったあたりは、病気で療養と皆に知らせる程度だったのだと思います。
永倉も「池田屋の時は、山南が病気で伏して…」とだけ残しているのは、彼自身も詳しい事は知らされていなかったのでしょう。

そののち、段々と労咳の特徴的な症状が出はじめ、死の病という怪しさが現実味を帯びてくると、山南を療養という名目で一般隊士や外部の者との接触を遠ざけさせるようになったのではないでしょうか。
恐らく、近藤も土方も山南の症状が酷くなってくると、「江戸に帰った方がいい…」とか「隊を離れた方がいい…」と促した事でしょう。


しかし、なぜにそうならなかったのか?


それは、山南がそれを拒んだのだろうと思います。
「わざわざ京まで来て、志の為に新撰組まで結成して、隊は絶頂期にあるのに自分だけ病気だのと言って江戸に帰りたくなどない!病などに負けはせぬので隊に居させてくれ!」と。
プライドの高い山南なら、きっとそう言う事でしょう。
例え新撰組の大幹部と言えども、病気で江戸に戻ったでは只々無様でカッコ悪いだけですからね…。仮に戻ったところで誰に合わせる顔があるでしょうか?
山南にとって帰る選択肢は有り得なかった事かと思います。

それを受け、近藤も土方もしばらくは、山南の気持ちを尊重してそのまま山南の様子を見る事にします。

ただ、大幹部が死病の労咳で隊内で寝込んでるなどとは安易にとても公言・周知する訳にも行かず、上層部だけの極秘だったのではないでしょうか。

それゆえ、山南の記録が不自然な程に何もない、皆閉口しているというのはこういう理由からだと私は推測しています。
知れれば、隊内に動揺も走るし、京の街におかしな噂も広がる(只でさえ色目で見られているのに)。それに、会津からも死病持ちの山南を始末しろとの命がくる事でしょう。
近藤も土方も江戸の試衛館時代からの古き仲間に情もあった事でしょう。
実際にいくら鉄の掟で新撰組をまとめていたとしても、試衛館時代からの古い仲間に関しては無慈悲な粛清を実行していません。
記録上、その唯一の例外が山南なのです。
(ちなみに沖田の病が重症化するのは、京都での新撰組活動末期、大政奉還の近くの混乱期、鳥羽伏見の開戦の約3か月前くらいです。ただ、沖田についても同様に隊内外に労咳だのと告知はされていません。沖田の労咳説もまた、後の世からの状況証拠を見合せて逆算して導いた診断に過ぎません。)

フローズン・オペ

さて、近藤と土方はとりあえず山南の事情を内密に進めますが、しかしさすがに限界がやってきます。近藤・土方は「もうこれ以上は山南を屯所に置いてはおけない…」と判断します。

そこで、後腐れなく山南が隊を抜ける方法を画策します。

まず最初にやったのが山南の後継人を作り。
会津にも隊士らにも、一般にも体裁が整い、格好がつき、山南のポストが不在となった時に混乱や変な勘ぐりを招かない手法をとります。
当時、近藤は剣術だけではなく、論にも優れた文武両道の人間の大切さを痛感していました。山南にはその素養があったのですが、その後継とあればそれに通づる者が必要です。そして、この山南の後釜こそが伊東甲子太郎と言うわけです。時期的にもピタリと一致します。

実際、山南よりも上の役職に置く事により、訳ありのすげ替えではないように印象コントロールをしています。これならば、突然やってきた伊東甲子太郎が新撰組中枢の、それも山南の上席に置く事の裏事情も説明がつきます。
つまり、いずれ山南は席を外れる事を前提とした人事だったのです。
もちろん、だいぶ症状が悪化していた山南はそれを認め、本人の承諾のうえで伊東を受け入れているという前提です。

山南は伊東に敬服し、その信頼関係にとある黙契をとっていたと言われています。

一般には、伊東と組んで新撰組転覆の謀反の黙契という事に解釈されています。

しかし、山南が健康でいるにも関わらず、新撰組を創成期から育てて来た自分がいるにも関わらず、突然やってきて自分の上の席に座った伊東と1、2ヶ月そこらで新撰組転覆を企むまでに至るのはあまりに唐突な発想に思えるので私はそのようには思いません。
また、一説に言われるように近藤・土方が山南を毛嫌いしていたとしたら、それに近い思想の男、同門の男、伊東を副長土方と同席以上に置くのもあまりに不自然です。

仮に伊東と山南の黙約が事実だったとしても、山南と伊東の関係は、山南の後継を伊東に託すという男同士の話し合い程度のものだったのではないかと考えます。
今の言葉でいえば「業務上の引き継ぎ」です。
(この伊東と山南の攘夷論に起因する黙約云々は、伊東がのちのち永倉に吹いた言葉だと私は疑っていますが…。)
まんが、沖田くん
そして、脱走へ
山南脱退への根回し下準備が整ったところで、遂に山南の脱走へと繋がっていきます。

当初は近藤も土方も療養という名目、もしくは他の名目でなんとか山南を江戸へ帰そうとしたかった事でしょうし、そう説得を試みた事でしょう。
しかし、先にも述べた通り山南にとって「病気で江戸に帰る」という選択肢は『恥』でしかなかったのだと思います。


労咳末期の山南は恐らくこう言った事でしょう。
「近藤さん、土方さん、仮に江戸へ帰ったところで私はいずれもう長くはない。自分の事は自分でもよく分かっている。せめて、武士としての死に場所を与えてくれないだろうか?願わくば皆と連れ添った新撰組で散りたい…。」と。

そして、近藤と土方は山南をせめて武士としての最期を飾れる場所・新撰組で切腹させられる理由づけを考えます。
それが山南も承知の上での「山南の脱走」だったのではないでしょうか?

もしも「江戸へ行く」とうの書置き説が本当ならば(私は信用していませんが)、皆を信用させる為の近藤土方らの演出・策だったのではないかとも推測できます。


いかがでしょうか?
この視点で見ると全ての不可解な部分が不可解ではなくなるのです。

山南が脱走と称して、すぐそこの大津で休んでいるのも(これはもう体力的に遠くへは行けなかったのだと考えられます。)、 追っ手に沖田が選ばれたのも、沖田がすぐに山南を見つけられるのも、見つけられた山南がノコノコとすぐに帰ってくるのも、そして、永倉らが再度逃げ道を用意しても受け入れずに、キッパリ切腹を選んだのも。
そして、誰もこの事について詳しく知らないのも、語らないのも、記録に残っていないのも…。
何もかもが綺麗に見えてきます。
今の言葉で言えば全て出来レースだったのではないでしょうか?

永倉の言う「山南を切腹に追い込んだのは近藤の案ずるところ…」という事も、ある意味本当だったのかも知れません。

余談ですが、
松本良順の様な名医が新撰組屯所を訪れ、隊士の集団健康診断を丁寧に行ったのは、山南の死後、西本願寺に屯所を移してからです。


伊東甲子太郎が山南を偲んで謳った句のひとつに以下のものがあります。

吹風に しほまむよりは 山桜 散りてあとなき 花そいさまし

この歌、何か山南の胸のうちを語っているい様にも思えます。

「山桜よ、吹風(病)にしぼんでしまうよりも、自らで散って痕を残さないその潔さは、なんと勇ましい男の華であることか」と、解釈できませんか?

伊東が山南の実情の全てを知っていたとは思いませんが、彼が病で弱って死期を迎えていた事は、理解していたかの様な表現です。




EX:西本願寺侍臣:西村兼文の手記を裏目から考える
当時の部外者の証言記録に新撰組の屯所の移転について、近藤・土方と山南の意見の相違があったとありますが、一説では、それが原因で切腹したという説もあります。

その根拠となるのが、前ページでも説明した屯所の移転先・西本願寺の侍臣:西村兼文の手記にあるものですが、彼の言葉はかなり誇張されていると見るべきでしょう。
そもそも、土方らが西本願寺への移転交渉に入ったのも、移転したのも山南の切腹後です。

ただ、それ以前に、山南が存命中に西本願寺への屯所移転の「検討会議」のようなものは、新撰組上層部内で当然行われた事でしょう。
ただ、まだ交渉にも及んでいない部外者の西村がその会議に参加している事は考えられませんので、西村はどうやってその近藤土方vs山南の移転に関する意見相違の口論ややり取りを知ったのでしょうね…?
まだ、交渉の段階にもない、決まってもいない移転先に大幹部がぞろぞろやってきて、西村の前で良いだの、悪いだのと、山南が自刃を決意するくらいの剣幕で激しい口論したんでしょうかね?
しかし、どうもおかしな話ですね。
対立意見を激論するなら、まずは先に隊内で行われるでしょう。

移転に関する有り様は、以下の様なシーンがあったのではないか?と考えてみました。
● 屯所移転時の幹部会議の様子 ●

*新撰組屯所の西本願寺への移転については、当然、直接の交渉に入る前に隊上層部内にて移転候補先に関する検討会議が行われた と考えておかしくはないでしょう。
新撰組幹部会議マンガイメージ
〈旧新撰組屯所内〉

局長:近藤
「屯所の新しい移転先候補は、西本願寺が広くて悪くはないと思うのだがどうか?」

副長:土方
「あぁ、悪くない。あそこの西村とやらはもっぱら長州に傾倒していると聞く。あそこに移れば薩長らの動向も掴み易いし、睨みも 効く。良い選択だと思う。」

参謀:伊東
「いや、局長には申し訳ないが僕は反対だ! 血生臭い新撰組の屯所を神聖な寺にするなどもってのほかだと思いますぞ。意見が割れるのであれば、ここは、土方君と同等席の山南先生にも意見を聞くべきではないのか?」

土方
「いや、山南総長は療養中で寝ている。なにも今聞かなくても良い事だ。止めたまえ、伊東殿!」


聞く耳を持たず席を立とうとする伊東。
すると襖が開き、そこに立つ山南。


総長:山南
「い、いや構わんよ、土方さん…。今日は大分調子がいい。話しは聞こえていた。本来なら私も会議に参加すべきですからな…。ゲホッ…」

土方
「山南さん…」


フテるように土方へ振り向き、見据える伊東


山南
「西本願寺は悪くはないが…、伊東さんの言う事も一理あるのではないだろうか? 新撰組の屯所となれば血生臭い事も多くある事は否定できない。元来、寺はそういう場所ではないですからな…。ここは、寺以外で移転先を探す方が京の人々の為にも世間的にも良いのではないかと思いますぞ。」

伊東
「そら見ろ!対立意見を封じるなどとは姑息ぞ、土方くん! だいたい、山南先生が療養中だなどと、人の良い彼の意見を封じる為の土方君の謀り事なのではないかね?!見ての通り山南先生は大丈夫だと申しておるではないか!」

近藤
「伊東君、もうそのくらいでよろしい。山南くんはじきに良くなる。さすれば隊務にも戻ってもらうつもりだ。貴殿はあ まり詮索せんでもよろしい事だ…。」

伊東
「…ぐっ。」


局長のたしなめに言葉を詰まらせる伊東。

このシーン・会話は完全な私の創作ですが、こんな感じの事前の話し合いが行われたを “伊東を通して” 西本願寺の西村に伝わったのではないかと推測します。

伊東は山南を悪くは思っていませんし、移転の話で自分と同意見だった部分もあったという事も十分に考えられます。ただ程度の問題で、西村の言うほど山南が頭に来て自刃するほど激しい意見対立があったかと言うと、とても疑問です。もしそうならば、両者の対立はもっともっと表立って来て他の第三者にも見知られるレベルになるでしょうし、山南も近藤に対抗する為、もっと外部へ自分の主張を声高々に吹く事でしょう。
ですので、これはおそらく伊東は自分サイドの視点で西村に話し、西村はそれを鵜呑みにして山南は伊東や自分達の同士だと見たのではないでしょうか。


そもそも伊東・西村サイドの視点ではなく、近藤・土方・山南の長い付き合いの視点から見ると、旧知の友人同士の間で、屯所の移転についてちょっとした意見違いがあった程度で、自刃しただの脱退しただのでは何とも見解が幼稚すぎると私には感じます。
人の気持ちとして短絡すぎる流れの様に思いませんか?


以上が、当サイトの独自の見解であり、山南の謎解きになります。
最初に述べました様に、決定的な証拠は何もないので、状況証拠をつなぎ合わせた当サイト独自の推理になります。

新撰組の山南敬助という男の当時の姿を思い浮かべる参考にして頂ければ幸いです。



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見解に関する参考史実は、限りなく現存する記録に忠実に従うように努めています。
しかし、当時の証言や言動などに関しては、誰にでも理解でき楽しめるように、わざと難しい説明や固い言い回し、昔の言葉使いや表現などをせずに現代口語に変えて記載してあります。

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