容 姿 |
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現存している写真にある通りかなりの男前です。
過去からの記録を見ても、男前だと言う証言が多々残されています。 |
●「身丈五尺五寸、眉目清秀ニシテ頗ル美男子タリ」
(身長は約168p、爽やかでとても美男子である)
●「ことに土方の如きは、役者とでも言いたいくらいの色男たる風貌であったのを記憶する」
●「漆のような髪を長ごう振り乱して、ざっといえば一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」 |
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など、他にも多くの証言があり彼の容姿を物語っています。 |
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沖田総司(約170cm)やその他の新撰組隊士など、皆さん意外と今の日本人の身長とそこまで大差ないくらいの当時としてはだいぶ大柄です。
(斉藤一/約175cm・島田魁/約182cmなど結構こんな感じ。)
顔立ちも、土方歳三はじめ当時の人の写真見るとヘアスタイルや衣装、写真の色合いが時代を感じさせるだけで、容姿に関しては現代人とそれほど差異を感じるものでもありません。
よく考えると150年前も今も、人はそんなに変わってないんじゃないのかな?って思えるところでもあります。 |
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性 格 |
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基本的におとなしく落ち着いていて、物静かな人だと言うのが当時の証言の共通事項です。
話をすれば単刀直入に必要事項を端的に話す為、事実だけを把握しやすかったと当時の記録にあります。
しかし、怒るとこれが手が付けられない程に荒れる為、幕府方では直に政治的な話をするのを嫌がったとされます。
この手のタイプの人は穏やかな顔をしながらも、じーっと人の行動と言動を監察しているのが常だったりします。話をすればいつも物静かで何も気にしてないかのように爽やかに受け答えをしますが、実際は相手の腹の中を見透かしているタイプです。
証言には、「目つきは人を射るような眼光を放っていた。」とも残されています。 |
表向きは知らん振りして話を合わせてつつ、相手の考えを粗方見通したうえで応対を講じるという策士の行動パターンが伺えます。
第三者に映る新撰組の副長・土方歳三とは、自身の一切の感情を押し殺し、相手を見据えながら神経を尖らせているそんなオーラがあったのでしょう。
もの凄く人の心理を読む洞察力の優れていた人だったのは間違いないでしょう。
だからこそ、戦術に関しては天才的な才能を発揮したとも言えるのではないでしょうか。
余談ですが、ちなみに京都以前の土方歳三の他者からの人物評は、「とても気が利く愛想のいい男で、商人っぽさが染みついているしたたかな感じがした。」とも評されています。
京都時代とは全然違う印象ですね。
たぶん、素の土方歳三はこっちなんでしょうけど。 |
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剣 術 |
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彼の剣術は、近藤勇・沖田総司などと同じ天然理心流です。
しかし、この流派の免許皆伝(最上段位)までは行っておりません。
天然理心流に入門前までにあっちこっちの流派を稽古していた為、変なクセが抜かなかったからだと言われています。
しかし、実践においてその剣は冴えわたり、彼が 考え出す技や戦術は実践で重宝され新撰組が得意とした技や戦術の核を生み出しています。
やはり稽古と実践では全くかってが違うわけですから、実践での心得をよく知っていた剣術使いだという事が出来ると思います。
それに加えて、新撰組には腕の立つ強者がゴロゴロしていたので剣の腕という点だけで言うと霞んでしまうというのもあるかもしれません。 |
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よく新撰組の隊士に稽古をつけては「まだまだぁ!」と言って熱を入れていたようです。
稽古を楽しんでいる彼の姿が目に浮かびます。 |
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エピソード @ |
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近藤勇が新政府軍に捕まった時、土方歳三は敵方と繋がりを密にしていた当時の幕臣・勝海舟になんとか近藤の命を助けてやってくれと嘆願に行きます。
勝海舟はその嘆願を受け入れますが、その約束を果たされる事はありませんでした。勝は官軍との交渉で邪魔になりそうな連中を江戸から追い出し、無血開城・血を流さずに江戸を守った男として有名になった政治屋ですが、忠誠を誓って命がけで戦った揚句に見捨てられた新撰組には不憫に思えるエピソードでもあります。
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エピソード A |
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箱館へ北上の際、仙台藩に立ち寄った土方歳三は、彼の器量と采配を買われて奥羽諸藩(東北全域)で大隊軍の指揮をしないかと重臣連中から提案を受けます。
その時に彼はこう答えます。
「その大任を受けるからには、一つ聞いておかなければならない事があります。大軍を指揮するに当たっては、軍令を厳しくしなければまとめられません。もしも、その軍令を破る者がいたならばお偉いさんでも切り捨てなければならない事になりますが、それでもよろしいですか?
それにご異存が無ければお受け致します。」 |
土方歳三のカマかけがここでも伺えます。
連中の根性と本気度を監察していたのでしょう。
その言葉を聞いた重臣連中は、それはダメだと言ってこの話しは無かった事になります。
当時の仙台藩の家老などは、その後「土方などはカスだ。あんなのと話しなどするに値しない。」という様な捨て台詞を残しています。
土方はすでに見抜いていたのでしょう。今までがそうであったように、こういう連中はいざという時に責任を押し付けて手のひらを返して逃げて行く事を。
そんな連中など、混乱の実践では只々邪魔なだけでロクな助けにも、クソの役にも立たない事に飽き飽きしていたのでしょう。
恐らく、形だけの責任者を祭上げて、何かの際は全責任を押しつけて藩として命乞いする為の理由にしたかったのがホントのところだったのではないでしょうか。
実際、このあと仙台藩の重鎮は非常に曖昧な態度で抗戦していきます。
鳥羽伏見の戦が勃発した後においても、東日本エリアでは旧幕府の実権構造がまだ根強くあった流れから、体裁上は仙台藩が奥羽越列藩同盟の中核を担う形で戊辰戦争へなだれ込んでは行きます。が、しかし…、会津と違って仙台藩は本腰を入れた徹底抗戦するまでには至らず、情勢を伺いながらの曖昧な動きや立ち位置を謀りながらの中途半端な戦略の末に、大した抗いをする事もなく、劣性な戦況を見てとるやあっさり白旗を揚げます。
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最 期 |
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土方歳三が北上し箱館に着いた頃には、彼はもう死の覚悟を決めていたと言われています。
その裏付けとして、
「もしも後の世に生き長らえる事があろうものなら、あの世で近藤達に合わせる顔がない。」 |
という言葉を早い段階で残しています。
箱館に入ってからは食事も粗末な物を好んで食べ、贅沢を遠ざけ、とても温和で皆から慕われたと言われています。
京都で鬼と呼ばれた冷酷な副長は、昔の自分に戻っていました。
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見解に関する参考史実は、限りなく現存する記録に忠実に従うように努めています。
しかし、当時の証言や言動などに関しては、誰にでも理解でき楽しめるように、わざと難しい説明や固い言い回し、昔の言葉使いや表現などをせずに現代口語に変えて記載してあります。
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