番外:山南敬助の謎について考える その@
山南敬助タイトルイラスト@

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新撰組ストーリー
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◎新撰組の最大の謎を紐解く!
 山南敬助と近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、伊東甲子太郎
 そして、その顛末は…

山南敬助とは何者?

新撰組の史実の中で大きな謎として語られているのが、大幹部・副長/総長の山南敬助(やまなみけいすけ)です。
小野派一刀流から北辰一刀流を修めた達人で、柔術にも長けていたと言われています。
文武両道の人格者として慕われ、色白で小柄な男だと証言が残っています。
仙台の出身で、読みは「さんなん」とも言われています。
実際に「三南」と書かれた書物があったりなどで、「さんなん」が正しいのではないか?という説が強くなっていますが、恐らく「さんなん」はあだ名のような親しみを込めたニックネームで、皆から愛された呼称を山南敬助自身も気に入っていたのではないかと推測します。

ただ、
読み云々以前に「山南」という苗字自体が、自分で名乗っただけの偽名である可能性はかなり高いものと考えます。

もし仙台藩の出で、由緒正しい武家の出であり、脱藩などの身であれば尚のこと、永倉(長倉)の様に家元に迷惑を掛けない様に同名をそのまま名乗らない(名乗れない)などの事はあった事でしょう。ですので、「山並」とか「南山」とか、それらに何かしらゆかりがあったか、はたまた全然違う名前だったかも知れません。

それとも、山南は「仙台藩」の武家出身ではなかったかも知れません。
現代でもよくある事ですが、宮城エリア出身の人が首都圏などに行くと「仙台出身」などと言ってしまったりする人も多々います。ですので、どこか仙台藩近郊の田舎の出で、通りの良い仙台出身と言っていた可能性も十分に考えられます。それこそ、どこかの三男坊で音から逆算的に山南を充てたとか仙台藩系譜の下級武士の落とし胤とか(上級武士なら原田の様に血統を自慢するとか、公言するとかしているでしょう)そんな風にも考えられます。

さて、出目はともかく「新撰組:山南敬助」を見て行きましょう。

山南敬助は後の新撰組の主要幹部メンバー達と同じように、江戸の近藤道場に出入りしていた試衛館時代からの古き仲間であり、友人です。
ですので、いわゆる新撰組創設メンバーの一人で土方歳三と同じ様に副長職に就くほどの重鎮です。

人柄はとても優しく皆から慕われていて、子供好きだった言います。
そして、何よりも沖田総司がとても山南の事を慕っており、仲が良かった言います。
沖田も子供好きで有名ですが、山南の影響もあり、よく子供たちと一緒に遊んでいたのかも知れません。

フローズン・オペ
山南敬助の活躍と脱走、そして切腹
さて、この山南敬助ですが、新撰組(浪士組〜)が創設されて間もない頃は猛剣を振るってバッキバキに活躍しています。それを評する記録や噂なども幾つも残っています。

土方歳三は山南が隊務でその剣を振い、その際に刃こぼれした刀の姿などをわざわざ形どった手紙を故郷へと送っています。
これはつまり、土方は山南の活躍を江戸に伝えたいという想いがあったからこそ、面倒な細工までして手紙を送ったとの心理を読み取れます。

ところが…、
新撰組として本格的に活動する頃ぐらい(1863年暮れ頃)からプツリとそ の存在自体が様々な記録から消えてしまいます。その後の情報としては、永倉新八の手記に「病気」で寝込んでいたので池田屋の捕物には行かなかったという記録が残されているのみです。

そして、約1年数か月のブランクのあと、突然、脱走したというエピソードが登場(1865年3月頃)します。
山南の脱走を受け、近藤・土方は、山南ととても仲の良かった沖田に追わせます。

すると…、山南は京都からたかだか15kmそこそこの大津の宿場にいたと言うのです。
普通なら歩いても2〜3時間レベルの距離です。
馬(時速50kmぐらい)なら1時間も掛かりません。
山南は脱走したにも関わらず、近隣の宿でゆっくりしていた事になります。

そして、沖田は大津の宿にいた山南をあっさり見つけます。
沖田は山南を連れて京都へ帰ります。
山南敬助の切腹

屯所に戻った山南は脱走による隊規違反により切腹となりますが、永倉新八らがこっそり山南の部屋に行って「あとは我らで何とかするから、今のうちに逃げろ、逃げろ。」と山南を説得しますが、山南はそれを受け入れず切腹の道を選びます。
そして、沖田の介錯により山南は晴々しい程の見事な切腹をして果てるのです。



以上が、わずかに記録に残る客観的情報の流れを繋いだものなのですが、一般に多く語られている様に不可解な事だらけです。

そして、山南の脱走を裏付ける大きな要因としては、近藤や土方らとの対立説が有力視されています。特に土方歳三との不仲説が取り沙汰されますが、はたして実際はどうだったのでしょうか?
考えてみましょう。

参照:山南敬助の様子記録 時系列
主な出来事 山南敬助 関連情報
1863年3月
(文久3年2月)
壬生浪士組 結成 副長就任
(活動・活躍記録諸々あり)
1863年9月〜10月
(文久3年8月〜9月)
文久の政変
新撰組 拝命・誕生
芹沢一派粛清
山南出動

総長(副長)就任
1864年7月
(元治元年6月)
池田屋事件
山南:病気中(永倉談)
1864年12月
(元治元年11月)
伊東甲子太郎
新撰組加入(参謀職)

1865年3月
(元治2年2月)
山南脱走(永倉談)
   山南切腹(永倉/西村談)
1865年4月
(元治2年3月)
新撰組屯所
西本願寺移転


まんが、沖田くん
考察 : 山南敬助の謎
さて、これらの不可解な山南敬助の謎をこのサイト独自の視点で考察してみます。
実は…、この謎をある視点で紐解くとなんと全てに筋が通って行きます。

まずは、山南敬助に関する不可解な点、合点がいかない点を整理してみましょう。

● 山南敬助に関する不可解なポイント ●
その@ 「消えた存在・一年数か月のブランク」

⇒新撰組の古参大重鎮の山南が新撰組の大事な時期に突如、その活躍がなくなる。記録もない。(その前までは活躍の様子が普通の残っている。)
そのA 「突然の脱走」

⇒何も記録がないかと思えば、突然隊を脱走する。
そのB 「追っ手に沖田」

⇒近藤・土方が脱走した山南の追っ手として差し向けたのは、山南ととても仲の良い沖田。
(仮に沖田が手ぶらで帰って来ても、近藤も土方も彼を咎められないだろう…。
つまり脱走した山南の追っ手としてはあまりに不適切な人物である。)
そのC  「脱走した山南はすぐ近くの大津宿にいた。
 しかも、沖田はそれを見つける」

⇒沖田は馬で1時間も掛からないような場所で山南を捕まえた。
これは、沖田は山南がどこにいるのか知っていたからこそ、そこで足を止める事ができたと考えるの自然でしょう。

それに、仮に山南の脱走後、近藤・土方が直ちにその不在に気が付いて、即追っ手を放ったが故に大津のような近場で彼を捕まえる事ができたとしても、大幹部が屯所から1〜2時間程度の不在だったくらいで誰がそれを「脱走」と決めつける事ができるでしょうか?
まぁ、せめて1〜2日ぐらい経ってから「…?何かおかしいぞ。」などの疑念が浮かんでくる程度ではないでしょうか?
ちなみに、このサイトでは脱走の際の山南の自署による書置き説は信用していません。
仮にこの説を肯定したとしても、一般に言われている「江戸に行く」程度の書置きで、例えそれが身勝手だったとしても、残された者達が「江戸に行く=大幹部の脱走」とはすぐには直結で決定判断できるものではないと考えます。それとも、山南と対立していた近藤が「江戸へ行く」をこれよしと脱走扱いにして切腹させたのでしょうか?
しかし、それでもまだ解せません。なぜなら、近藤と対立し、論の立つ山南なら、それこそ「なぜに、江戸に行く=即脱走・切腹となるのだ!」と巧みに理屈をこねて、隊内外の他の者に「近藤は卑怯だ!」と、聞こえる様に主張する事でしょう。
そのD 「山南はまったく逃げようとしない。脱走・切腹を素直に受け入れる」

⇒永倉と伊東という新撰組の重鎮が「後は何とでもするから、何も心配しないでもう一回逃げろ!」と山南に提言しても、山南はそれを全く受け付けず切腹を選ぶ。

▲▽▲ 山南の脱走から切腹までの一件を知る手がかりの主線 ▲▽▲

■ その@『永倉新八の証言』■

⇒ 手がかり記録の筆頭が永倉新八晩年の回顧録による証言です。
それによると、「近藤は山南の脱走をここぞとばかりに喜んで切腹に追い込んだ。」とあります。
これはある意味事実の側面からその通りだとも考える事ができるでしょう。
山南の脱走説を否定する声もありますが、新撰組の古参幹部の永倉が回顧して証言している以上、客観的な描写の部分は事実であろうと考えても良いかと思います。ですので、経緯は何であれ、山南はいずれにせよ脱走をした事にはなっているもの考えます。

但し、この証言では「近藤は山南が気に入らなくて、切腹をさせるのを望んでいた。」というニュアンスで書かれていて、永倉の主観が表現されています。
しかし、永倉は新撰組の後期になると近藤とウマが合わなくなって口論したりしています。回顧する時点での老いた永倉の近藤に対するイメージは「近藤はいつの間にかわがままで嫌な奴になってしまった…」という “永倉爺さんの主観” が加味されていると見るべきで、永倉の主観の部分は少し間引く必要があると考えます。


注視のポイント!

永倉の回顧録では、
「山南が新しく入隊した参謀の伊東甲子太郎にひどく傾倒して、話し合いを重ねてある黙約(暗黙の約束)を取り付けたので、近藤はその事を快く思わなかった。そんな事から山南の脱走を喜び、切腹へと追い詰めた。」と言うのである。

さて、ここで大いなる疑問が生まれる。
@ 伊東と山南の秘密裏の関係や黙約の事を当事者ではない永倉がなぜに知っているのか?

A
新撰組に破格の待遇で受け入れられたばかりの伊東に対して、近藤がなぜに嫌疑を抱いていると永倉は言えるのか?
伊東の入隊間もないこの時点で、なぜに近藤にとって伊東が要注意人物になっている(伊東と論を交わし意気投合する事を不快に思っていた)と永倉が言えるのか?
伊東は1864年12月《元治元年11月》合流。
山南の脱走・切腹は1865年3月《元治2年2月》
⇒ 伊東の入隊後の約3ヶ月後に山南の脱走切腹となる

伊東が近藤らと袂を分けて御陵衛士の分派で出て行くのは入隊から約2年半後の1867年である。つまり、普通に考えれば入隊してすぐに険悪な仲になった訳ではなく、しばらく時間が経ってから距離が出て来たと見るべきである。 そもそも、近藤がハナから伊東を毛嫌いしていたのならば、わざわざ伊東を新撰組に招き入れる必要などない。伊東を参謀という大幹部&文学師範という新撰組の中枢へ破格の待遇で受け入れたのは近藤自身である。つまり少なくとも当初は、近藤は伊東を大歓迎していると言える。伊東の腹の内は分からないが…。

以上の事柄に対して、
永倉が手記に記した裏情報や書かれている近藤の心理を知る術は、以下の3つの可能性です。


● 近藤・土方からそう聞いた。
● 山南から聞いた。
● 伊東から聞いた。


まず、土方からそう聞いた…は、ないでしょう。
彼の口からが近藤の陰口を叩くかのように、近藤を売るような真似はしないでしょう。

さて、では近藤が言ったのでしょうか?
しかし、近藤本人が「山南が伊東に傾倒しよってムカついたので、奴が脱走でもした暁には、これ良とばかりにし切腹に追い込んでやる。or 追い込んでやった。」などと、その意地に悪い心情を永倉にわざわざ言うわけがありません。そんな事を言えば、沖田や皆から慕われている山南を卑怯な手で追い込んだとひんしゅくを買い、それを聞いた者は近藤を軽蔑するでしょうし、そうなれば隊はバラバラになり近藤は自分で自分の首を絞める事になります。
それとも、山南の切腹の後みなの前ででも、近藤は「はっはっはっ!してやったり。ざまぁ見ろ山南!」みたいな下賤の者のモノ言いを言ったのを聞いていたのですかね?
違いますね。
近藤は山南の切腹を見事だったと称賛したと言われています。

それでは、山南本人から直接聞いたか?
これもないでしょう。
もしも、脱走を覚悟した山南から聞いたのであれば、永倉の言ももっと山南よりの説明になる事でしょう。第一、山南が唯一その心情を吐露する相手が永倉ならば、2人はかなり近い親交があるべきとも考えられますし、山南の名誉の為にももっともっと山南の事や彼の考え主張について記すはずです。そして、沖田と山南の間柄のように親しかったなどの客観的な情報もあってはおかしくはありません。しかし、永倉の証言から見るに永倉は山南の一件に関しては非常に第三者的です。つまり、起こった出来事しか知らない様に見て取れます。

では、残るは伊東という事になりますが、恐らく可能性の答えはここでしょう。
山南の死後に策士の伊東が吹いていたのではないかと考えます。
そして、永倉の手記にも伊東についてはいろいろと記録がされ、登場もします。
永倉が伊東に感化される事はなかったと思いますが、伊東からいろいろ話し(伊東視点の主張。ストーリー。)を聞かされていたのではないでしょうか。
何より、切腹を待つ山南に「もう一回逃げよ!」と説得を試みたのは、永倉と伊東なのです。

■ そのA『西本願寺の侍臣:西村兼文の手記』■
⇒ 定説になっている近藤・土方と山南の不仲説の大きな根拠となっている証言です。

「新撰組の屯所の移転検討時、近藤・土方と山南は対立し、それに腹を立てた山南が自刃した。」という内容です。

ただし、西村は新撰組とは真っ向対立する長州の勤皇志士らととても親交が深かった人物です。それゆえに、近藤・土方ら新撰組を酷評している人物でもあるため、彼の言葉はかなり誇張されていると見るべきでしょう。
ちなみに余談ですが、西村は伊東と親交が深かった人物でもあります。

それに、西村の証言通り近藤土方との対立説を踏まえて考えたとしても、屯所移転のあくまでも「検討」レベルの話し合いで(実際に屯所の西本願寺への移転交渉や移転が行われたのは山南の切腹後の翌月)、意見が分かれたという程度の事で切腹したり、もしくは、山南が慕い、慕われている旧友らにも何も告げず、単身身勝手に脱走してしまうなどの彼の短絡的な行動がどうも解せません。


以上が、主な山南に関する不可解な点や辻褄の合わない謎の部分になります。
他にも細かな事はあげればキリがありませんが、これらのポイントで上手く説明がつかないため、山南の謎を誘う要因にもなっています。

さてさて、以上を踏まえて次ページでは山南の謎をある視点で紐解いてみましょう。
ある視点で見ると、面白い事に不可解な部分に合点が行くようになります。

⇒ そのA 山南の謎を解く:結論考察
山南敬助タイトルイラストA


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見解に関する参考史実は、限りなく現存する記録に忠実に従うように努めています。
しかし、当時の証言や言動などに関しては、誰にでも理解でき楽しめるように、わざと難しい説明や固い言い回し、昔の言葉使いや表現などをせずに現代口語に変えて記載してあります。





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