土方歳三と新撰組 その歴史(要所のできごと年表)

新撰組出来事年表
◆ トップページ・新撰組と土方歳三の幕末物語 ◆
新撰組ストーリー
■ 土方歳三と新撰組 その歴史 ■ ■ 鬼の副長 土方歳三 ■ ■ 土方歳三とお琴 ■
■ 局中法度書 ■ ■ 新選組の剣術 ■ ■ 新撰組の編成と3強 ■

〜 土方歳三と新撰組 〜
■1835年│土方歳三は、現在の東京日野市に金持ち農家の末っ子(10人兄弟)として生まれる
金持ち農家の末っ子は、幼少の頃から武士・さむらいになる事に憧れる。

■1859年│20代で天然理心流に入門。のちのボス近藤勇に正式に弟子入り 
ここで、のちに新撰組の大事な仲間達になる人達と出会う。さむらいに憧れる農家出の土方歳三には、近藤勇が道場主の天然理心流「試衛館」は自分の夢を繋ぐ心のよりどころでした。近藤の直弟子・沖田総司の他、永倉新八、斎藤一、山南敬助などの後の新撰組の顔となる面々が近藤の人柄を慕い試衛館に集まり、一緒に稽古したりしてました。

これから数年後、京都での徳川将軍警護の為に幕府から剣術の実力者の募集が一般公募されます。

■1863年2月│徳川将軍の護衛の為に道場仲間と共に京都へ向かう
徳川将軍の京都上洛にあたり、警護人員の一般公募が掛けられます。

これに応募した試衛館の面々は、剣術の実力が買われてメンバーに採用されます。
この公募は実力重視の募集だった為、浪人やならず者も含めたいかつい剣客達が集まり、京都へ向かう道中では予想に漏れずケンカやトラブルを起こしながらも華の都を目指します。

天才剣士で有名な沖田総司ももちろん一緒です。
そして、この道中では試衛館のボス近藤勇も同行者の浪人に難癖を付けられてのケンカ・トラブルに巻き込まれます。ここで興味深いのは、横暴な男に難癖を付けられてバカにされても、近藤はそのケンカを買わず、頭を下げてトラブルの肥大化を防ぐところです。このあたりの精神的な強さと器量の大きさが試衛館で皆から慕われていた理由なのでしょう。


そんなこんなやりながらも一行は無事に京都に到着します。
しかし、京都へ着いたとたん、今度はお偉方の方でのゴタゴタがあって「やっぱり、将軍は護衛しない!」って事になってしまいます。なんと、本来の目的が目的地に着いた途端ご破算になってしまいます。来た足でまた江戸へ引き返すと言う、面倒な話しにもなりました。

のちの新撰組メンバーになる浪士達数名は「このままノコノコ江戸に戻っても仕方ねえぞ。」って事で、目的も無いまま自分達でチームを作って京都に居残ります。その時に土方歳三は残ったチームの副隊長となります。
この時期のチームと言っても只の任意チームですので、メンバーの中でそれぞれの立場や身分を考慮した格好だけの肩書に過ぎないものでした。
しかし、この辺から江戸にいた頃と別人格になったように土方歳三は少しずつ冷酷で厳しい男に変わっていきます。


この時期、彼らが京都の壬生村に拠点を構えた浪人集団という事で、京の人達から壬生の狼・みぶのオオカミ(浪人の「浪」と「狼」の字をモジって)とあだ名され、怖がられ、そして、見下されます。
「浪人」とは身分をどこにも属さないフリーの人の事です。粗暴な者が多かったのもあり、時代は変われど無職のフリーさんは人々から白い目で見られたわけです。ちなみに、「浪人生」の名前の由来はここから来ています。大学入学への勉強に励んでいる予備学生とは本来の浪人のニュアンスとは違うように思えますが、「どこにも所属していない。」という意味から浪人生と呼ばれています。

■同年8月│ 国の治安管理責任者・会津藩(現在の福島県会津若松)から京都の街の治安を守る特別警察部隊として正式に任命・認可を受ける
「壬生の狼」は、しばらくアテもなく京都での日々をダラダラと過ごしますが、メンバーの中に武家出身の浪人もいた事もあり、ツテを辿って当時京都の治安を管理していた会津藩に自分達の後ろだてになって貰えないかと嘆願します。

元はと言えば、幕府の都合で京都まで連れて来られた連中でもあるし、当時の荒れていた京都の治安管理には手を焼いていたのもあり、仮に壬生の狼メンバーが市中の治安見廻りで討死するような事があっても別に連中の命などどうでもいいしな…と、特に損な事はなかったので、壬生の狼チームを会津藩管理下の特別警察部隊として認める事となります。
壬生狼達はもとより命が惜しいなどと思って京へ来た訳ではありませんでしたので、両者の利害がピッタリ一致した訳です。

この時に壬生の狼達は、会津藩預かり「新選組」を拝命します。
これで自分達の立ち位置がクリアになった新選組創設メンバーは、一気に鼻息を荒くします。

この当時、長州藩(現・山口県)と土佐藩(現・高知県)は古い国のあり方を壊して、新しい国の姿を作ろうと必死でした。自分達は正義の使者だとして京都へやって来ては、江戸幕府という当時の国の体制を倒す方法を模索していました。しかし、非常にやっかいで手に負えなかったのがそれに便乗した同国出身の浪人達でした。
『天誅!天誅!〈てんちゅう・天の裁きという意〉』と言って、「正義の為には、オレ達は何をやっても許されるんだ!」と、身勝手な理論で強盗をするは、やたらメッタら刀を振り回すわで、京都は治安の乱れたうすら怖い街だったのです。そこで、そういう不貞の輩を取り締まり、京都の街の治安を取り締まるのが新撰組の仕事でした。


ここから3年間、新撰組は京都の治安維持の為にワケワカメな浪人の取り締まりと国(江戸幕府)を倒そうとする人間達の取り締まりに警備を強化し遂行します。

新撰組の隊士のメンバー募集もはじまります。こうして新撰組は多い時で100人を超える大所帯組織と育っていきます。
土方歳三は副長として隊をまとめ、鉄の規律で厳しく律していきます。
一切の例外は認めず、役職を問わず規律を破った者は切腹でした。

そして、結成当時の幹部メンバーもこの規律や派閥争いにより粛清されていきます。

■1864年│池田屋事件
新撰組が名実共に認められる事になった一大事件です。

長州の志士達は風の強い日に京の御所に火を放ち、その騒ぎのどさくさに紛れて当時の天皇を誘拐して自分達の冠として祀りたて、長州の行いと幕府への宣戦布告を正当化しようと画策していました。

そして、新撰組はその計画に関する会合が行われるという情報を入手し、その計画実行の撲滅に出陣します。
当初は、四国屋という旅館で行われるだろういう説が有力でしたが、確たる証拠がなかったうえ、長州浪士達が他の場所に潜伏している可能性も非常に高かいという、なんとも的を絞りきれない捜査となりました。

そこで、有力である四国屋のあるサイドの町屋群を土方歳三が人数を率いて乗り込み、逆側の町屋通りは近藤勇をリーダーとした新撰組の強者精鋭者の少数部隊が "しらみつぶし" で探索にあたります。

残念ながら四国屋へのヤマははずれ、なんと長州志士の潜伏は手薄の近藤部隊が探索していたサイドの「池田屋」でした。

声を上げて池田屋に乗り込んだ近藤部隊は、逆サイドにいる土方部隊を待つことなど到底できず、連れの隊士数人を店の外で待機させ(逃げ出て来る者を逃さない為に)、狭くて暗い池田屋に近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助らの数名で切り込んでいきます。

この時の死闘が凄まじく、中にいた二十数名の敵を一網打尽にしてしまいます。

この功績が幕府にも、会津にも、世間的にも認められ、新撰組は一躍表舞台で注目を浴びる存在へと踊り出ます。

■1866年│薩長同盟締結
池田屋事件での一件で反乱への大事件を一時的に封じる事が出来たとしても、倒幕の志しを持った全ての種を絶つ事までは不可能でした。池田屋に集っていた倒幕の重鎮志士は、全体から見れば一部でしかなかったのです。

そして、なんと今まで会津藩と双頭をなして江戸幕府の重鎮だった薩摩藩(鹿児島県)が坂本竜馬(土佐藩)の口利きで長州藩と手を組み、幕府の敵に翻ってしまいます。
薩摩・長州・土佐の三国が手を結び、当時の天皇の後ろだてを秘密裏に取り付けて自分達中心の新政府旗上げを仕掛けます。
これで国(幕府)を支える有力な重鎮責任者は会津藩だけとなり、ポツリと孤立する形になってしまいます。

■1867年│新撰組、幕臣に昇格
当時の感覚からすれば、農家出身の浪人が幕臣になるなんて事はまず不可能な事でした。
身分制度がとても厳しい時代、農家出身の浪人が国のお抱えの貴族・サムライになる事はありえないわけです。時代の流れと社会情勢は大きく変わって来てはいましたが、それでも形としてやってのけたんだからもの凄い訳です。

しかし、喜びもつかの間。このわずか半年後、江戸幕府が完全に崩壊します。
これは大変な事です。今までの地位なんか「幕臣?ふーん…。でっ?」ぐらいの物になってしまうおっかない乱世に突入して行きます。

薩摩(鹿児島県)・長州(山口県)・土佐(高知県)は新政府を立ち上げ、秘密裏に海外より膨大な銃火器を入手し、自分達を官軍(朝廷に認められた正規の軍)と称して幕府側(旧政府)の要人達へ総攻撃をしかけます。

■1868年│1月3日 戊辰戦争(日本国内乱・新政府軍と旧幕府軍の戦い)が勃発! 
会津藩を軸にした旧幕府側は「長州・土佐・薩摩軍(新政府軍)などに負けてたまるか!」と新撰組を前線に差し向けて戦います。しかし、敵方の銃火器類による攻撃に刀槍では太刀打ちなどできるはずもなく、多くの仲間達が命を落とします。
この時、土方歳三は「もう刀剣で戦いをする時代は終わった…。」と言います。名実共に考えれば、史実上、彼らが実存した最後の侍とも言えるでしょう。

土方歳三の言う通り、銃弾が飛び交う空間に気合いと根性で刀を振りかざして突っ込むのはどう見ても分がありません。
その後、旧幕府軍は敗戦を重ね、新撰組も京都から江戸へと落ち延びて来ます。

同年4月、ボスの近藤勇が捕まり処刑されてしまいます。
天才剣士として圧倒的な強さで京都時代の新撰組を支えた沖田総司は、不治の病の為、江戸の片隅に身を隠し治療に専念しますが、この一ヶ月あとその命は散ってしまいます。なんか哀しいですね。

その後、京都 → 江戸 → 会津と後退しながら新撰組は戦い続けます。
近藤勇が捕まった以降は、組を分隊してルートを別にして東日本を北上して行きながら戦います。

旧幕府の重役連中は自分達の劣勢が際立ってくると、新撰組と会津藩を見捨て「知らねえよ。あいつらが勝手にやったんだ。」といって手のひらを返し命乞いをしはじめます。
しかし、会津の大将・松平容保は最後まで新撰組を含めた自分の家臣達と共に戦う事を止めずに応戦する道を選びます。

■同年8月│会津戦争開始
この会津の戦いで有名なのが少年達の切り込み部隊・白虎隊です。
この戦いでは女性・子供までもが武器を取り戦いに挑んだそうです。この時、敵将の薩摩のおっさんがその姿に度肝を抜かれ、戦うのを躊躇(ちゅうちょ)したという逸話が残っています。
(なんとも胸の痛む話です。女・子供が必死になって槍や刀を持って挑んでも、銃での攻撃や屈強の敵方の戦士集団に武力で勝てるハズがありません。なんか、その後の時代の戦時下の日本の話にも似てますね…。)

さて、戦の行方ですが…、残念ながら会津の敗戦となります。
しかし、ここで会津の大将・松平容保は敵の薩摩軍に対してこう言います。
「一切の責任は自分にあるのでどんな仕打ちでも自分が全てを甘んじて受ける。だから会津の人々は助けてやってくれ。」と、言い伝えられています。大将の器はこういう極限の時に試されるものです。
ただ、この後延命する容保の傍ら、会津の人々はここから数十年に渡り酷い苦汁をなめ続ける事になります。
会津戦争後、新政府軍は会津の戦死者を賊人として埋葬をさせず長期間捨て置き、雨風にさらした為、遺体はカラスなどの餌になりました。また、その後の城下では長州・薩摩藩士による素行・蛮行があまりにむごたらしく、味方である土佐藩の人間ですら批判する程までだったと言われています。明治の世になると会津とその人々への差別は著しく、顕著なほどの政治的な弾圧があり、華々しく輝いた東北の雄は辺境の僻地へと姿を変えて行きます。本来ならば東北の中心地になってもおかしくない会津若松は、明治の厳しい仕打ちが尾を引き、現在でも過去の歴史を物語る小さな観光地としてひっそりとたたずんでいます。
 
余談ですが、新撰組三番隊リーダー・斉藤一はその一生を会津に捧げた事から、会津藩士ではなかったかという説があります。
明治の世まで生き残った彼は、明治政府の警察官となり、西南戦争(簡単に言うと、明治時代に起きた薩摩と新政府の主権争いの戦争)において抜刀隊の一員として薩摩と戦います。会津に忠誠を誓った斉藤一は、この抜刀隊に入って切り込む事で薩摩への恨みを晴らそうとしたのではないかと思われます。事実、西南戦争では会津出身の志願者が多く、こと薩摩との戦いに関しての士気は凄かったそうです。何せ薩摩藩は土壇場で幕府・会津藩を思いっきり裏切った訳だから。

■同年10月│ 会津戦争真っ只中、土方歳三は斎藤一を隊長に据えた新撰組・新編成の部隊を会津に託し、土方歳三率いる残りの部隊は宮城県を経由して船で箱館へと向かう
この時、海外帰りの旧幕府のエリート・榎本武揚という人とその仲間と合流します。
そして、新しい仲間と共に箱館・五稜郭を拠点にして別の新たな日本国を北海道に築き、自分達の新しい未来を作ろうという夢を計画します。

以降の戦いから函館戦争終結まで、急に国際的な匂いと洋風色が漂う和洋折衷の装いが感じられるのは、榎本の教養と人望によるものが大きいと言えるでしょう。

■1869年3月│宮古湾海戦勃発
現在の岩手県・宮古市にある湾岸に新政府軍の甲鉄船(鋼鉄で出来た巨大戦艦)が旧幕府の残党狩りの為に北上し、停泊しているとの情報を受け、新撰組を含めた旧幕府軍は海から船で近づき甲鉄船を奪取する作戦を仕掛けます。
しかし、甲鉄船には1分間に180発の弾丸をマシンガン撃ち出来るガトリング砲という銃火器を積んでいた為、旧幕府軍は蜂の巣状態で攻撃を喰らってしまいます。

この時の旧幕府側の船の艦長・甲賀源吾は全身に銃弾を受けながらも指揮をとり、そのまま即死したと言われています。
もの凄い…。

■1869年│箱館戦争勃発
榎本武揚を中心にした旧幕府軍は北海道に自分達の新しい国家・蝦夷共和国を設立します。
しかし、新政府軍はそれを許すはずも無く北海道まで攻め立てて来ます。

新撰組と蝦夷共和国軍は応戦します。土方歳三率いる部隊は劣勢の中で唯一勝利を重ねて前進しました。
これは、武力の優劣ではなく土方歳三が敵方の攻撃・策略を見破り、そして彼の施す策が見事に成功し、敵方がその策略に乗せられ旧幕府軍の攻撃を恐れた為だと言われています。    
土方歳三の鋭い洞察力と知恵が功を奏した訳です。
 
しかし、やはり多勢に無勢。結局、蝦夷共和国軍としてこの戦に勝つ事は叶いませんでした。
新政府軍の総攻撃が顕著になって来たこの頃、土方歳三は新撰組隊士でありながらまだ17歳の少年・市村鉄之助という人物に自分の遺品を託して箱館から脱出するように命じます。

土方は言います。
「箱館を脱出して江戸へ行き、今の戦況を伝え、私の遺品を親族に渡してくれ。
君は心配しなくていい。私の親族にその後の君の面倒を見てくれるように頼んだ手紙をこの中に添えてある。」

しかし、市村鉄之助はこの命令をこう言って拒みます。

「私は皆と共にこの地で戦い、果てる覚悟でおります!このまま私だけが生き、逃げるような事は出来ません。
お願いします!この任はどうか誰か別の者に託してください!!」
 
市村がそう言うと土方歳三の目つきは急に変わり、怒りをあらわにしたと言います。
「これは新撰組・副長として隊士への命令だ。そんなに死にたいのなら今この場でこのおれがお前を始末してもいいんだぞ。それでもこの命を拒むのか?!」
と睨み据えました。
 
市村はあまりの気迫と鬼気に
「は、はい…。 や、やります…。ごめんなさい。」
と首を縦に振ります。
 
市村がそう言うと土方歳三は落ち着きを取り戻し、微笑みながら
「気を付けて行きなさい…。」
と言葉をかけます。
 
その日の夕時、箱館を抜ける船に乗り込む為に市村鉄之助は五稜郭を後にします。
彼が振り返ると薄暗くなり始めた建物の窓には人影があり、その窓の人影は市村が小さく見えなくなるまで、ずっと彼の姿を見送っていたそうです。
市村鉄之助は、その人影の事をこう言っています。
 
「誰だったのかは断定は出来ませんが、あれはおそらく土方副長だったと思います…。」

■同年5月│新政府軍の総攻撃開始
5月に入ると新政府軍の総攻撃が一斉に始まります。

5月11日、古くからの新撰組隊士達が箱館の弁天台場という湾岸の先で孤立し、敵に包囲されてしまいます。
土方歳三は彼らを救い出しに行こうと新撰組の仲間と共に箱館・五稜郭から出陣します。

■1869年5月11日│土方歳三 戦死
弁天台場に向かう土方歳三の部隊は奮戦しながら敵を退け前進しますが、一本木関門という関所を抜けた所で土方歳三は敵の銃弾を腹部に受け落馬します。
    
劣勢の上、隊の指揮官が重症の為に動けなくなったのもあり、一隊は一旦前線を退きます。
しかし、土方歳三はその時彼に肩を貸していた仲間に「すまない…。」とひとこと残して息を引き取ったそうです。
 
土方歳三の遺体は、敵方に見つからないように新撰組の隊士が密かに埋葬し、その後、一切どんな時に於いても口外されることがなかった為、行方知れずとなりました。
    
現代においても、五稜郭の中のどこかではないかという説はありますが、彼がどこで眠っているか、それを知る者はいません。


ご覧の通り、
新撰組の誕生から壊滅、土方歳三の死までたったの5年余りです。
わずか5年の間にこれだけの事が起こり、生まれ、そして歴史の彼方へ散って行きました。
新撰組とはあまりに忙しく、あまりに儚い、夢に生きた男達のほんの一瞬の出来事なのです。


◆ 掲載コンテンツの著作について ◆
このウェブサイト及び紹介する作品群の全ては Tanchow Entertainment が所有・運営しており、 その著作権及び関連する全ての権利は弊社に帰属します。
営利・非営利を問わず、このウェブサイトに掲載されている 画像、動画、音楽、音声、文面、作品の内容、脚本の一部、もしくは 全部等の著作物を当社の事前の承諾なく、複製・加工・配布・再出版、作品化 及び販売/ コンテンツ盗用などの一切を厳しく禁止すると共に、権利は法令により保護されており、これに違反した場合は厳正に対処するものとします。

Copyright(C) 2007-2018 Tanchow Entertainment, All Rights Reserved.