組 織 編 成 |
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新撰組はトップのボスを局長と言う名で呼び、それに副長、総長/副長〈*呼称は諸説あり〉(再編成後)、参謀(再編成後)と続き、副長の指揮の実働部隊として10組の部隊が編成されています。
その他に、監察といって情報収集や張り込みなどを主とした密偵部隊が存在します。
局長
| ー 参謀
〈副長〉 ー 総長(副長その2)
↓
《副長指揮・指令の剣客部隊》
監察 10番隊 9番隊 8番隊 7番隊 6番隊 5番隊 4番隊 3番隊 2番隊 1番隊 |
興味深いのが、副長が実質的に精鋭部隊10組を取りまとめていた実権構造になっているところです。
つまり、隊士からすると局長や総長などのうえの人達は雲の上のお偉いさん的感覚で普段の接点も比較的少ないため、直接の指揮官である副長こそが畏怖の存在であったと言えるでしょう。 |
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新撰組 三強 |
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新撰組の三強で挙げられるが、一番隊・二番隊・三番隊のそれぞれの隊長・リーダーです。
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沖田総司(一番隊)・永倉新八(二番隊)・斉藤一(三番隊)
強者揃いの新撰組の中でもこの3人はズバ抜けた剣の達人とされ、病死の沖田総司以外は明治の世まで生き抜き天命をまっとうしています。
「誰が “一番” 強かったか?」は愚問なので、そのあたりの詮索はしないでおきましょう。 |
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◆ 沖田総司 |
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あまりにも有名な幕末の大剣豪・沖田総司は、よく悲壮の美男子とうたわれ小説や物語に華をそえています。
残された証言からは、美男子と言うよりはもっと武骨な感じで背が高く、色の浅黒い青年だったようです。
短気な性格で、弟子たちへの稽古では、指導した事ができないとすぐに怒るという事で、弟子たちは沖田からの指導を怖がったとされます。
その一方で、剣を置いた沖田の日常はとても明るく、いつもフザけては子供達と遊んでいたといいます。 |
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その剣技は天才と言われ「猛者の剣」と評されています。師匠の近藤勇もまともに立ち会ったら勝てなかったのではとも言われています。
しかし、そのイメージとは裏腹に剣を持った沖田に対し「沖田などはとても残忍だった」などの証言も残っています。
彼の得意とする技は「三段突き」で、たった一歩の踏み込みで3回の突きを瞬時に繰り出し、そのあまりに速いスピードの為に3本の突きが一本に見えたと言われています。もちろん誇張はあるでしょうが、そのくらい突きが出来たからこそそういう表現をされたのでしょう。
副長・土方歳三は重要な場面では必ず沖田率いる一番隊の出陣に頼り、任務を遂行させています。 |
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◆ 永倉新八(長倉新八・杉村義衛) |
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証言上は沖田総司よりも剣術の技術練度が上だったと言われています。(「沖田よりも永倉の方が稽古が進んでいた」という証言)
百戦錬磨の神道無念流の達人で、新撰組結成前から江戸の近藤の試衛館道場に出入りし、天然理心流の門人たちとは懇意の中でした。
近藤勇に出会う前は道場破りをして腕を鳴らし、剣術修行をしていたと言います。
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新撰組では2番隊を統率し、重要な任務を任されて活躍します。
池田屋事変という当時の世に新撰組の名を知らしめた大任務においても沖田らと共にたった4人で斬り込み、手負いを受けつつも要となる働きをし、ズバ抜けた剣豪ぶりを見せつけています。
武術家としてとても礼儀正しく、正統派の剣術使いというイメージが彼にはあります。
天才肌の圧倒的センスとカンで剣を閃かせる沖田、そして、剛の剣で豪快に立ち振舞う斉藤に対し、技術・剣技の永倉という感じでしょうか。
永倉は、明治の時代まで生き残り、天寿を全うします。
後に新撰組の記録を残し、現代に伝わる新撰組の事実の核を記した人物でもあります。 |
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◆ 斉藤一(山口二郎・藤田五郎) |
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新撰組のなかでも土方歳三が暗殺の仕事を任せる事が多かった人です。
「左片手一本突き」と言うのが彼の得意技です。
簡単言うと左手の突きです
(ただ、マンガの様に一本だけを猛突進で突っ込む突きではなかったでしょうし、そもそも「斎藤の決め技/必殺剣・左片手一本突き」自体がホントではないかも知れません。かっこいいですけどね。)
さて、何かと取り沙汰される彼の左利き説ですが、ここで検証してみましょう。
彼は左の突きが得意だったされますが、果たして斉藤一は左利きだったのでしょうか? |
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答えは…、右利きでしょう。
(もしかしたら、子供の頃に矯正されたもともと左利きの人だった…かもはしれない。)
当時の武士としての生きる事の意味、もしくは武家社会における日本の生活習慣・価値感などから男子が左利きで生活をしたり、剣技を左利きのスタイルで習得するなどは不可能であったなど、利き手の理由はいろいろ裏付ける事ができます。
では、問題の「なぜに左で突いたと言われているのか?」という疑問に、ひとつには剣術における右手と左手の役割から察する事ができます。
(ちなみに、スポーツ剣道の竹刀と剣術の真剣は、柄の形状や重さのみならず、握り方・持ち方による理の作用も全然違うので別モノと考えます。) |
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刀を振る時、右手は主に刀の方向性を決めるコントロールに使います。そして、意外と力を要するのは左手・左腕の方です。刀を押し込む力や引く力などは左腕の加減が鍵にもなります。だから、稽古では左手一本で重めの木刀を素振りをすると剣の振りが安定してきます。ずしりと鋼の質量がある日本刀を振るう時、左の絞る力がしっかりしていると剣さばきがブレず重さが安定してきます。当然、熟練者であれば左腕の強度も増し「ズシッ!」とした重さに繋がります。
という事も踏まえると、一撃必殺に賭けた突きに於いては、左の突きにも強烈な重さや殺傷力が十分に宿ると言えます。また一般に右利きの武士には、不慣れな角度からの強烈な突きに一瞬のスキを狙いやすいというメリットも生まれます。
斉藤一はこのやり方を匠に利用していたのではないかと考える事ができます。更に、もしも斎藤がもともとが生まれつきの左使いの脳ならば普段は右利きでも、反射的な場合は左手が心地よく、動かしやすいというのもあったかも知れません。
特に真剣勝負の命を賭けた瞬間において、それがわずかだったとしても利のあるエネルギーや効果を有効利用するのは戦術の基本であり、時に大きな得をもたらす場面は少なくありません。
斉藤一は、
「いざ実践で戦うとなると、稽古の時のように相手がこう来たから、こう受けてこうするなどという事はとても出来ず、真剣で立ち向かえば "なにくそ!” という気持ちでただ剣を振り回したものでした。」と言葉を残しています。
これが実践における事実なのでしょう。
なので…、有名な斎藤の左のお突きですが、実際には無我夢中で闘っていると左手でも突く事があった。そして、それが意外と致命傷を負わせるのに効果的だった…というのがホントのところだと思います。
実際に日本刀の切っ先を向け合い対峙すると、ただそれだけでもかなりの怖さがあるものです。これを目前で動かされたり、振りかぶられたりしたものなら、正直とんでもない緊張感と恐怖が突き抜けて行きます。
真剣ではちょっとの間違いでも"死”っていう鋭さが一瞬にして張り詰めて来ます。
ホントによくやったよ、この時代の人は。 |
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見解に関する参考史実は、限りなく現存する記録に忠実に従うように努めています。
しかし、当時の証言や言動などに関しては、誰にでも理解でき楽しめるように、わざと難しい説明や固い言い回し、昔の言葉使いや表現などをせずに現代口語に変えて記載してあります。
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